映画パプリカを原作との違いから考える
こんにちは 爪です。
今更ながら今敏監督作品のパプリカを観たので感想を書きます。
あらすじ
精神医療総合研究所で働く千葉敦子は、天才科学者である時田浩作が発明した夢を共有する装置・DCミニを使用し、別人格パプリカの姿で悪夢に悩まされている患者の治療を行う優秀なサイコセラピスト。ある日、DCミニが研究所から盗まれてしまい、装置を悪用して他人の夢に強制介入し、悪夢を見せて精神崩壊を起こさせる事件が発生してしまう。敦子達は犯人の正体と目的、そして終わり無き悪夢から抜け出す方法を探る。
感想
見てる間ずっとドーパミン出っ放し。
美しい映像と広辞苑をひっくり返したような言葉のセンスが癖になって、1週間のレンタル期間中に2回観ました。
一部では、気味が悪い・不気味という評価も見ましたが、イカれ具合も映像と音楽でポップに描かれているので個人的には娯楽映画としても楽しめました。
エンドロールで筒井康隆さん原作と知って、すぐに購入しました。
「旅のラゴス」や「夢の検視官」好きなんです...!
原作を読んでいると、大まかな流れは同じですが設定は結構違います。
特に主人公である千葉敦子とパプリカの関係が全然違う!
そこでふたりの関係からこの映画のことを考えてみようと思い立ちました。
ここから先はネタバレを含みます。
映画・原作をこれから観るよという方は是非見ないでください。
また、この感想は映画を二回鑑賞、原作を一度読んだ後に書いたものです。
認識違いの箇所もあるかと思いますが、どうかご容赦ください。
千葉敦子とパプリカの関係
映画と原作それぞれの特徴を挙げた後、違いを述べて考察に入ります。
・映画版のふたり
千葉敦子はクールで頭脳明晰、容姿端麗。常に理性的な印象。めちゃめちゃ肌が白い。
千葉敦子の分身であるパプリカは、天真爛漫な少女という感じ。肌も小麦色で頬のそばかすがチャーミング。人懐っこくて誰からも好かれるタイプ。
完全に真逆の性格ですね。
パプリカの登場は基本的に夢の中だけです。しかし、終盤に敵の思惑で夢の世界が現実に侵食。その影響でパプリカも現実世界に登場し、敦子や島所長のピンチを助けます。このときのふたりの印象的な会話がこれです。
敦子「あなたは私の分身でしょう。」
パプリカ「敦子が私の分身って発想はないわけ?」
この会話や、序盤にも敦子とパプリカが会話している場面もあることから、敦子とパプリカは「別人格」であると考えられます。
・原作版のふたり
原作版千葉敦子。映画と同じくクールで頭脳明晰、容姿端麗。映画とは違って奔放で、登場する男性キャラとほとんど関係を持っています。(映画版からは想像できないシーンもあり読んでいて驚きましたが、敦子の目的や感情の機微が読んでいて分かったので個人的には原作敦子めちゃくちゃ好きです。)
毎日のようにテレビ局から出演依頼のくる美しさが損なわれることがないのはさいわいと言えたが、あいにく治療に利用する以外は自分の美しさにも、テレビ局にも彼女は関心がない。
小山内が真顔になった。辛らつなことばの応酬で敦子にかなう者はいないということを思い出したようだった。(小説パプリカより)
原作版パプリカは、千葉敦子が内密なセラピーを行うために変装した姿。千葉敦子が自分で化粧を施し気持ちを切り替えることで、夢探偵パプリカとなる。
その髪型や身装りからはややいかれた小娘としか見えなかったパプリカが、話すにつれて次第に知性を眼の光やことばであらわにしはじめた。
パプリカになるにはどうしてもある程度の時間がかかる。髪型を変え、化粧を変え、そしていちばん厄介なのが、いったん貼り付けたら洗面くらいでは落ちない「そばかす」を眼の下にひとつひとつピンセットで付着させていく作業だった。それによって顔が大きく変化し、若返ると同時に、その作業の中でパプリカになる心の準備が整っていくのである以上、おろそかにはできない。(小説パプリカより)
敦子とパプリカの違いは服装、容姿、しゃべり方など。あまり中身に差はありません。
・原作と映画の違い
上記から、原作と映画で敦子とパプリカの関係が大きく異なることが分かります。
原作においてパプリカはあくまで敦子が演じる少女ですが、映画版では明らかに違う人格と区別されています。
考察
なぜ映画版では別人格として描かれたのでしょうか?
正解は分かりませんが、私が考えた別人格として描くメリットは二つです。
①夢と現実が混ざり合う様を表現できる
②「無意識」を強調できる
①夢と現実が混ざり合う様を表現できる について
映画パプリカを観終わって、私は率直に夢の表現や夢と現実が混ざっていく表現がとても好き!!と感じました。みなさんもそう感じた方が大多数ではないかと思います。
ちなみに私の最も好きなシーンは、「島所長が壊れていくシーン」。
それまで普通に会話していただけに、所長の発言が変なことに初めは気が付かなかったんですよね。一瞬パプリカが怪訝な顔をする描写が入って、その後しばらく所長がちぐはぐなことを話し続ける。
「オセアニアじゃあ常識なんだよ!」
「賞味期限を気にする無類の輩は花電車の進む道にさながらしみとなってはばかることはない!」
「思い知るがいい!三角定規たちの肝臓を!」
賢い人の頭を引っ搔き回して出てきた単語を福笑いしたみたいな。組み合わせが変なだけで文章が一見成り立っているのが面白い。
この場面は、音楽も過剰な演出もないにも関わらず(ないからこそ?)とっても異質に映りました。その後所長が急に走り始めてから音楽がかかり、不気味さに拍車がかかる。
現実に静かに流れ込んでくる夢の狂気を存分に感じられます。
すみません、前置きが長くなりましたが、
とにかくパプリカは夢と現実の表現を楽しむことができる映画なんだと感じたのです。
夢と現実が最も混ざり合っているのが終盤。
自分の分身であるはずのパプリカが出現する。同時に存在するはずのないふたりが一緒にいることで、より現実ではない、という違和感を味わえることができたと思います。
単純に夢の中だけの分身と自分が協力するなんてアツい展開ですよね!!
終盤の盛り上がるシーンのためだけでも敦子とパプリカを別人格としたメリットはあったのではないかと思います。
②「無意識」を強調できる について
原作の序盤、敦子と小山内によるこのような口論があります。
小山内「分裂病の患者は神経症の患者みたいに無意識を偽装させているんじゃなくて、すでに無意識をそのまま声高に語ったり、そのまま演じたりしているわけです。~。」
敦子「でもその無意識は、分裂病患者の無意識なの。だからシニフィアンとシニフィエと異常な結びつきを調べなきゃならないでしょうが。」
急に難しい。
他のシーンでもフロイトやユングといった心理学者の名前や専門用語が度々出てくるため少し調べてみました。
上記の口論、原作の描写、調べたことを併せてかろうじて私の頭で分かったことは、
・無意識とは、自覚できない心の領域。(感情、忘れているトラウマなどなど)
・夢は無意識を反映しているため、夢を分析することで自分への理解が深まる。
・無意識も意識や自我に知らず知らずのうちに影響を与える。
・患者の無意識=夢では、姿形と意味が必ずしも一致しない。(例:Aさんからいじめられる夢を見ていても、夢が示唆するのはAさんと似た別の人である、など。)
心理学、さらっと調べただけでは到底理解できそうになかったですが興味深かったです。
ただ、やはり「無意識」というキーワード。これは夢を象徴する言葉であり、夢をテーマにしている本作においても重要だと分かりました。
ここで思いつくのが、「パプリカ=敦子の無意識から形成された人格」という仮説です。映画に当てはめて考えてみます。
・夢は無意識下の世界。無意識の自分であるパプリカは、その世界を自由に動くことができる。
・パプリカの人格は敦子の無意識下の人格であるため敦子にもコントロールできない。
・時田の「欠如はパプリカ?」シーンについて、あのとき敦子とパプリカは分離していた。パプリカは無意識の存在と言っても、無意識(パプリカ)は意識(敦子)に影響を与えるため、その影響がないわずかな変化に時田は気が付いた。
などなど・・・
ただ本当にパプリカが敦子の無意識領域でしかないとしたら、内密な治療をパプリカが請け負うことに疑問が残ります。それを加味するとこんな感じでしょうか。
優秀なサイコセラピストである千葉敦子が、DCミニを使用した夢の中の治療には「自分の無意識の人格」が最適であると考える。優秀なのでなんとかパプリカを出現させることができるようになる。当初はコントロールできていたが、やはり無意識の存在であるが故にどんどんコントロールができなくなっていく・・・。
うーん、、、それともこんな感じ?
DCミニでの治療には危険が伴う。精神力が弱いと患者の夢に同調してしまい、自分に影響があるためだ。敦子はそれを防ぐため、夢に入る際は「自分の分身=パプリカ」を作り、できるだけ夢全体を客観視することを思いついた。治療を重ねるにつれ気づかぬうちに無意識下の自分が投影されていってしまう・・・。
(/・ω・)/☆★☆
おそらく映画のテーマでもある「夢と無意識」。これを強調するために映画では「パプリカ=敦子の無意識から形成された人格」として、敦子とパプリカを別人格にしたのではないでしょうか。どうでしょうか。
以上、わたしのとっちらかった考察でした。
映画パプリカの魅力とは?
色鮮やかな映像、魅惑的な音楽や言葉によって、意識のあるうちに夢を楽しむことができる映画です。
お酒を飲みながら映像表現やセリフに浸るもよし。
パプリカをきっかけに自分の夢や無意識について考えるもよし。
細部までこだわりが詰まっていて見るたびに違う楽しみ方ができそうです。
最後に
長文・乱文でしたが読んでいただきありがとうございました。
考察というものを初めてしてみたので楽しかったです。
それでは。